トップインタビュー>加藤貴史(広島経済大)

再びユニフォームを着て

加藤 貴史
広島経済大学・投手

8月某日、雨上がりの下祇園駅。
広島経済大学のグランドにむかうと
そこには、大学野球選手権・明治大戦を最後に
ユニフォームを脱いだはずの加藤が
練習着を着て立っていた。
「こんにちわ」
ちょっぴり謙虚な好青年は、白い歯を見せながら
話し始めた。
広島六大学リーグは今日、9月4日に
開幕する。そのマウンドに加藤は立つ。


加藤貴史(かとう・たかし)
背番号21 経済学部4年。172cm72kg 右投右打。
右サイドからスライダー、速いシュート系のシンカーと
遅めのシンカーを投げる。
打たれても点を与えないピッチングが持ち味で
明治戦は「ある意味自分らしいピッチングでした」と笑った。

 

“三菱重工広島から話がきている”

明治に敗れ、広島に戻った加藤に小桜高誌監督はこう伝えた。
こんな自分に・・・まさか。
僕みたいな選手が社会人でもできるなんて思わなかった

野球は選手権で辞めるつもりだった。
リーグ戦優勝争いの試合後、ユニフォームからスーツに着替え、就職活動。
そして見事、県内の某有名企業に内定した。
あとは正式な書類を提出するだけだった。

しかし、重工広島はずっと加藤を見ていた。
“全国大会でどんなピッチングをするのか”
密かに神宮にも足を運びチェック。
その期待に応えるかのうように、龍谷大戦で9回1失点、四死球1で完投勝利。
これが内定の決め手となった。
それなりに好ゲームはできると思ってはいた。
でも、勝てるとは正直思っていなかったんです

1年時からベンチ入りも夢舞台にはいけず

野球を始めた小学生のときからずっと投手。
名門・高陽東に入部すると、いきなりチームは春の県大会で優勝し
中国大会では1年生ながらベンチにも入った。
高2の夏を迎える直前には
投げても投げても全然ダメだったから、気分転換で」とサイドスローに挑戦。
それがすぐにしっくりきて、サイドでいくことを決めた。
秋は背番号10で、エースナンバーは現在専修大の3番バッターとして
活躍している杉田暁彦。
杉田が投げているときは一塁を守り、打っても主軸を任されていた。
春、夏は念願だったエースナンバーを付けることができた。
春の県大会では準優勝に輝き、夏は優勝候補にもあげられていた。

夏、加藤を投げさせることなく、チームは勝ち進む。
そして遂に4回戦で加藤が先発のマウンドにのぼった。
相手は進学校の広高校だった。
(大会初先発で)夏の雰囲気にのまれましたね・・・5回終わって6失点くらい(苦笑)
5−8で高陽東は敗れた。


体が開くクセがあるため、体重を残そうとしているから無意識に
足がクネっと曲がるんだとか・・・

真面目でなかった1、2年

加藤は東京で野球を続けたかった。
強いチームの環境の中でやれば、人間的にも成長できる
しかし、合格確実と言われた駒澤大のセレクションに落ちてしまった。
駒大ダメだったら、地元の大学でやると家族にも約束していた。
だから、仕方なく広経大に入ったという感じなんです(笑)

広経大に入学すると、1年秋でベンチ入りを果たし
初登板初勝利も飾っている。
2年になると2番手を任されるようになり、秋には防御率3位にもなった。
でも、1、2年のときはやりきれなくて、練習も真面目にやってませんでした。
ダッシュとかも全然やりませんでしたね

どうしても関東の大学でやりたかった。
だから今でも、東京の大学でやれないことを正直悔やんでおり
両親とも“あのとき東京に行ってれば”と口げんかすることもあるという。

チームの柱となるにつれ、自覚が出る

3年になると、少しずつ加藤の気持ちに変化が出てきた。
先発として投げ出して、吹っ切れた感じがあったんです。
そういう思いを関東の人に見せてやろうと思うようになった

春にはベストナインを受賞。最優秀防御率にも輝いたはずだったが
広島六大学は規定投球回数ではなく規定ゲーム数という
5チーム全部に投げなければいけない特別なルールがある。
それを後で知った連盟側が、4チームしか投げていない加藤に
電話で表彰の撤回を申し入れたそう。
これには加藤も驚いたそうだ。
だが秋には正真正銘の最優秀防御率に輝く。
56回を投げ自責はわずかに5点。6先発のうち5回完投と
その存在感が更に大きくなった。
秋が終わって真面目に練習するようになりました。
70本近いダッシュもするようになって・・・

ここまで個人的な結果は残してきた。
しかし、1年春以来優勝の味をかみしめていない。
最も神宮に行きやすい(入学前に4連覇してる)と思って入学したはずだったのに。
だから4年春は優勝だけを狙っていた
今春、近大工学部、広島工大、広島国際学院大と戦力が同じくらいで
とにかく例年にないほどの接戦だった。
加藤が2戦連続で投げたこともあった。その中で6勝をあげ、MVPと最優秀防御率を受賞。
個人タイトルは意識してませんでした。チームが優勝できたので良かったです

恩師の言葉で入社を決意

念願の全国舞台。
組み合わせ抽選の前から明治とやりたかったという。
一場らプロ注目の選手がいるからかと思えば、それは少し違っていた。
お客さんいっぱいのところでやりたかったんです。
明治だったらたくさん人が入ると思ったし、自分のことを見てくれる人がいる。
あのような環境の中でやれて幸せ。相手を意識することなく割り切って投げられた

加藤は何度もこの言葉を繰り返した。

内定の話を聞き、2週間ほど悩んだ。
その間、母校に帰る機会があった。
そこで、恩師・小川成海監督にこう言われた。
今の世の中、野球をやりたくてもできない人がいる。与えられる環境を作ってくれたのだから
ここで諦めてしまったら、まわりの人に失礼だ

加藤は三菱重工広島へ入社することを決めた。
自分みたいな投手を取ってくれたので、恩返しして、勝利に貢献したいです。
どうせやるならプロ目指してやります!

あのとき、関東の大学にいっていたら、もしかしたら野球は大学でやめていたかもしれない。
関東の人に自分のピッチングを見てもらいたい、
広島にいたからこそ芽生えたこの気持ちが、加藤の野球人生を変えた。
一瞬止まりかけたその道を、加藤は再び歩みはじめた。

------------------------------------------------
あれは、6月22日。
広経大の岡田英幸部長からメールをいただいた。
実は、加藤は野球を続けられそうなんです

それから、今まで以上に興味がわいた。
高校時代はどんな選手だったのだろう、
どういう経緯で内定が決まったのだろう。
こうなったら広経大まで行くしかないと
残り少なくなった旅費をやりくりして、甲子園を抜け出した。
本当は練習も見学する予定だったが、あいにくの空模様。
室内練習場のない広経大。
午前中は体育館で簡単な練習を行い解散した。

取材後、学内を見学していると、ウェイトトレーニング場に
帰ったはずの加藤がいた。
他部の部員が賑やかにトレーニングしている中で
一人黙々と自分のメニューをこなしていた。
真面目、ストイックな男です。普段は物静かだけど、努力家」とは
首脳陣の言葉だ。

 
山の中腹にある体育館から本部棟と安佐南区を見下ろす。学内には本格的なラジオブースやハイビジョンを備えたスタジオも。
右はベンチに貼ってあった「硬式野球部ミーティング」。野球部員の心構えなどが書いてある。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送