トッププロ選手のアマ時代の軌跡>大久保勝信

 

名前 大久保 勝信
ポジション 投手
投打 右投右打
身長/体重 185cm/76kg
生年月日 昭和51年9月13日
出身 和歌山県
高校 日高高校
大学 立命館大学
社会人 松下電器
大学時代の思い出 神宮大会
社会人時代の思い出 日本選手権 vs日通
(延長12回 勝利)
プロ野球
大久保は4月9日、中継ぎ強化のため1軍に登録された。
そして、その日のうちに1軍デビューを果たす。西武ドームだった。
3番手で登板、2回2/3を奪三振3のパーフェクトに抑えた。
 最初についたのは黒星だった。
4月29日、自らの暴投も含み1回2四球2失点。打者6人の猛攻を受けた。
5月5日、大ピンチの場面でマウンドにのぼった。
1死満塁・・・何事も無かったかのように併殺に打ち取る。
3回2/3を無安打に抑えた。お見事初勝利。
「ウィニングボールは母にあげたい」

その4日後にはロングリリーフ。4回を投げ許したヒットはたったの1本。
この日、初めてセーブがつく。
 月日は飛んで7月10日。私の中でも印象に残ったゲームがあった。
3日前に右肩に打球を受け打撲。登録抹消されると思った。
しばらくは見ることができないかもと思った矢先だった。
彼は同点で迎えた、6回から登板。
日ハム打線を6連続で三振にしとめ、4回8奪三振、1安打ピッチング。
最速の149キロも計測した記憶が残っている...
「彼の投球で流れがこっちにきた」とは仰木監督の言葉。
3勝目だった。

 オリックスファンの間での印象はどんなものだろうか。
クールで、度胸があり、とてもルーキーには見えない。
そんな感じであろう。大久保はずっとプロの世界を目指して野球をしてきた。
ずっとこの場所でプレーすることを夢見てきた。
それが叶った今年、誰が彼の勢いを止めることができるだろうか。
後半戦に入ると、彼は勝敗より、抑えとして登板しセーブポイントを
積み重ねていった。1回限定ではなく、2回になったりと
ロングリリーフも多くなった。その度に「投げ過ぎや」との声も上がった。
しかし、彼は言う。
 「疲れているのはみんな一緒。」
8月31日、40試合目の登板で7勝目をゲット。防御率は1点台のままだ。
41試合目、ちょっと特別なことがあった。
この日の登板で16SP。球団新人記録を更新。
パリーグ新人記録まで6SP。その記録もそう遠い存在ではなかった。
このあたりから新人王のことも頭にあったという。
「目標としている選手は?」「マリナーズの佐々木さん」
ちょっとだけ近づけたかな。

 野球人生の中で、最も長い夜がやってきた。
新人記録まであと1SP、9月26日大阪ドーム。
見慣れた球場だ。1年前、違うユニフォームを着て胴上げしたっけ...
そのときとは観客の数も応援の大きさも、違う。
どこか違った空気が流れていた。
松下電器時代、良きライバルだった愛敬が自分より先に投げ、好投。
負けていられない。まして、敵の胴上げなんて見たくない。
3点リードで迎えた9回。8回もしっかりと抑えていたはずだった。
スライダーを狙われる。時々内角へ速球が決まるときもあるが…
気づけば塁はうまっていた。北川に投げた2球目を強振したのが見えた。
大久保が打球の行方を追う、その先は右中間スタンド中段だった。
 そこから後は、何があったのか、わからない。胴上げを背に、ベンチへ下がっていく
大久保の姿を見届けただけで、テレビの画面の中心には北川が映っていた。
誰も彼を責めることはできない。なぜなら、彼しか信頼できる投手がいないからだ。
打たれた球は?の問いに「スライダーです」と答え、球場を後にした。

 その4日後、2番手で登板するが、3ランを浴びてしまう。
負けず嫌いな彼が、まるで初めて弱気な姿を見せたかのようだった。
ここで立ち直らなければ、この先、プロではやっていけない。
あと、1SPが遠い。プロの厳しい現実を目の当たりにして、その成長を
ゆっくりと、静かに見守っていたい。
彼が胴上げ投手となる日がくるのを楽しみにしながら・・・
松下電器
1年目から同期入社の愛敬(帝京大-近鉄)とともにフル回転。
公式戦デビューは静岡大会、抑えで登板。
それから1ヶ月後の岡山大会では2回戦に登板するも
サヨナラ負けを喫する。
社会人の目玉・都市対抗野球には1年目のNTT東日本戦に
先発登板し、勝ち投手になるものの、3回戦の水島戦では
3番手で登板、3回5奪三振にも関わらず、3失点。
翌年は登板せずに東京ドームを去った。
この水島戦が最後の都市対抗となってしまった。

2000年、大久保は春先に調子を落とす。
スポニチ大会ではコールド負け、都市対抗に関しては
予選で2/3回投げたのみであった。
日本選手権出場決定戦、ここまで不調だったにも関わらず
先発を任せられた。4回被安打8と数字的には悪いが
苦しい場面で連続三振が出るなど、光った場面もあった。
この試合で本大会出場を決める。
大久保が最も印象に残った試合に1回戦の日本通運戦をあげた。
松下1点リードで迎えた9回、勝利を目前に同点にされてしまう。
そこで降板。「自分が打たれたせいで・・・」そう思い悩む間に
延長12回、仲間の一振りで逆転に成功した。
その後、準決勝・決勝とつづけて中継ぎで登板し
初優勝に貢献した。

優勝の歓喜の1ヶ月前、五輪を控える全日本が3ヶ国対抗に参加。
GS神戸での試合、プロの補充選手として大久保は登板した。
相手は最強・キューバ。が、大久保は堂々としていた。
3回、4奪三振、無失点。
試合も1−0の完封だった。もちろん、マスコミの目は代表選手で
先発した杉内(重工長崎)、2番手の土井(日本生命)に注がれた。
 しかし、この大久保の好投を見逃すわけがない。
これで指名を決めたという。
11月、「いい印象はある」と、オリックスを逆指名した。

立命館大学
未だに連盟記録に彼の名前が刻まれているタイトルがある。
それは「1試合最多奪三振記録」だ。
平成8年(大学2年)の秋季リーグ対京大1回戦で
大久保は18奪三振という、リーグタイ記録を出す。
昭和34年以来の快挙だった。このリーグで立命大は優勝。
 しかし在学中、表彰選手、ベストナインに
選出されることは無かった。
3年時から調子を落とし、先発の座を後輩だった
田中総司
(ダイエー)山田(ダイエー)や平本(ヤクルト)に譲らざるを得なかった。
なかなか結果を出せない大久保は、
リーグ通算21勝をあげ、またリーグ優勝を1度経験し卒業した。
同期がダイエーへ入団するのを祝福し
心の中で、いつか自分もと言い聞かせたかもしれない。
日高高校
2年秋には県ベスト8まで進む。
翌夏の県大会では、選抜優勝校の智弁和歌山と
初戦で戦い、好ゲームを展開しながらも敗退してしまった。
そのときの智弁和歌山のエース・笠木とは
社会人時代に何度か対戦をする。
笠木はNTT西日本に入社、大会予選では何度も顔を合わせることになるとは
5年後の話。
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